私が触ると虫の命に関わる

ペンネーム 舟橋 さん 女性

・まだ虫が苦手でなかった頃の最古の記憶

四歳の頃、バッタを網で捕まえ、ビニール袋にいれて集めたことがあります。その頃は、「こんなに集めた!」という達成感が強く、虫に対する嫌悪はありませんでした。 しかし数日後、手で捕まえたバッタの長い足が片方なくなっており、その姿を見た時に「自分のせいで足がないのでは」「足がなくなってるのだから歩きづらくて大変だ。そうしたのは自分なのかもしれない」と瞬間的に思い、轢き逃げ犯のようにその場から逃げ出しました。その後バッタの扱いは変わりましたが、足を触らないだけで、手にのせることはできていました。

・蝶と蛾の違い

小学一年生の頃、課外授業の公園でルリシジミ(多分)を捕まえました。薄紫色が大好きだったので綺麗なちょうちょだと思い、友人に自慢したところ「それ蛾だよ!」と言われ、全身がぞくっとし、すぐさま逃がしました。今思えば、友人の嫉妬のようなものだったのかもしれません。 蛾に対しての嫌悪感は、母の影響であると考えられます。家にたまたま入り込んだ蛾に対しては怖がる母は、私のちょうちょの話には「ちょうちょならまだいい」と気を遣って話を聞いてくれました。ここで蛾は悪いもの、蝶は良いものという認識ができたのだと思います。・決定的瞬間私が完全に虫が苦手になったのは、小学生三年の頃だと思います。モンシロチョウの飼育を授業でしていた際に、ニャッキの影響もあって私たちの班ではアオムシをまるで犬か猫かのように可愛がっていました。ある日そんなアオムシちゃんをよく見るとあまり元気がなく、お腹に黄色いものがくっついてるように見えました。怪我したのかななどと話していましたが、調べてみたらアオムシサムライコマユバチ(衝撃的すぎて名前が忘れられません)に寄生されている事がわかりました。ほんっっとに可愛がっていたので、心境的には飼い犬の腹を食い破って黄色い卵が出てきたくらいの衝撃です。それからも皆で卵をとってみたりしてみたのですが、当たり前のようにアオムシは死んでしまいました。 一度ペットを飼った人の中には死に目が辛いから二度とペットは飼わないという方がいらっしゃいますが、その気持ちにプラス「寄生」というあまり聞こえのよくない事象が乗っかかり、虫は悲しい・気持ち悪いものへと変わりました。

・小学生男子の残酷さ

そうして虫を触る事が減った翌年の小学四年生の事、休み時間になって外へ出ると、昇降口で仲のよい男子がしゃがみこんで石を地面にぶつけてました。何をしているのかと覗くと尺取虫の切断でした。どろどろの緑(だったと思います)の中、うにうにと動き続ける断片。「どこまでやれば動かなくなるのかな」と話す男子。「わかんない。」と返し、なぜか眺め続けましたが、そこは私にとって実験場でもありましたが殺人現場のようでもありました。その時心の中で「(私はやっぱり虫が嫌いなんだなぁ)」と再確認していました。

・現在の虫に対する気持ち

このようなむしとの体験を頭で考え直し、数年前一つの結論に達しました。私がむしぎらいなのは、その脆さに原因があります。足がないバッタを見て、自分の足がない様子を浮かべたり翅のちぎれた蝶を見て手のなくなった自分を浮かべたり。また、手に残った虫の足なんかは、人の足のように思えました。「私が虫を触ると虫の生命事情に関わる」それが今、私がむしぎらいである原因です。

コメント(むしくろとわ)
「ひき逃げ犯のような〜」「飼い犬の腹を〜」という比喩表現が素晴らしくご自身の感情の機微に対してとても冷静な目を向けておられるのを感じます。更に文章への転換が見事です。

「脆さ」「共感」「良心の呵責」というようなとても繊細な感覚が
昆虫との心理的・物理的距離を取る感情を生んでいるような気がします。その先に「嫌悪」という感情が湧くのは

「近寄りたくないのに勝手に近づいてくる。殺したくないのに殺される」
という虫の行動ともつながるのでしょうか。

本HPを始めてよかった、と思える名文です。(むしくろとわ)